減って

生きるためのモチベーションってたまにすごく危うい。

人との付き合い方とか、この人は好きで、この人は苦手とか。愛すべき存在とか。

人間社会とか人間関係の闇って、自分と関係のない話だったとしても、なんだかムカムカしてきますよね。

そのムカムカを因数分解してみると、「えっ、人間としてそれはダメでしょ」っていう倫理観の低さを遠ざけたくなるような感情が大きいけれど、

「そんなことを平気でできる人もいるのかぁ、それに比べて私って、無難に無難に生きてるだけ」という決して届かない羨ましさ、言い換えるなら嫉妬のような感情が存在していることも確かなのです。

そして、そんなふうに思ってしまう気持ちに気づいて、また自己嫌悪に陥ります。

 

憎まれはしないが褒められもせず、変化も刺激もない日々を、『誠実』を額に貼りつけて生きているような。でも誰もわかってくれない。

 

いったい何面体なの社会って

いったい何面体なのあなたって

こんな夜って、一気にモチベーションが下がる。

正しいお嬢さんはどちら

その通り。私とあなたには何のカンケイもないわ。ただひとつあるとすれば…、いや何でもないわ。

私だってすごく好き。だけど好きであってはいけない理由があるから、あなたに好かれることも怖かった。

もし両思いになってしまったらと考えると、その先が怖かったから、あなたに好かれることが怖かった。

生きてる年数が長いほど、この辺りはどんどん複雑になりうるところなんです。どうかわかってほしい。いつかあなたにもわかる日が来るわ。

だとしても、私からあなたに近づいたことはまぎれもない事実。だからあなたも私を恨んでいるだろうし、私にあなたを恨めしく思わせたいと思って攻撃を企てるのも当然のことだと思うわ。

だけどあなたは正しすぎて私の人生をめちゃくちゃに狂わせるようなことはしない。やっぱり私のことが好きだからでしょう。私だってあなたのそういうところが好きです。

 

じゃあ、もし両思いになってしまったときのことを考えてみて。

私たちは、はじめはきっと世界中の誰よりも愛し合う関係になることでしょう。だけど、これまであなたを見守ってくれていた人はどう思うでしょう。私のような新参者にあなたを奪われたら。みんなで大切にしていたあなたが、私一人のものになったら。どれだけ多くの人が悲しみ、どれだけ大きな悲しみが私たちふたりを覆い尽くすのか、あなたは考えたことある?私はどれだけ大きな自責と後悔に苛まれることになるか、考えたことはある?

こう言うときっとあなたは、他人の言うことは気にするなと言うのでしょう。でも私は気にしないなんて到底耐えられません。みんなのことを気にせずにのうのうと、ぬけぬけとあなたを自分のものにしてしまうことなんてできません。

それに、私はもともとあなたを異性として好きになったわけではありません。今では異性としてとてもタイプだし、一緒にいられたらどんなに幸せかと考えます。だけど、もともとこのような思いよりも強かった思いが、別に存在します。

それは、あなたが人としてとても「正しい」人間だったから。羨ましいくらい正しい考えかたができて、それに見合った実力を見事に兼ね備えています。そのためにどれだけ努力をしたかも知っています。私は、そんなあなたが人として好きだった。

たとえば、どうしようもないくらい気が合わなくて嫌いな人がいたとして、その人を-100の位置に置きましょう。次に、好きで好きでたまらなくて今すぐにでも一緒になりたい唯一無二の相手を+100の位置に置きましょう。そうすると、異性としてのあなたは+100の位置にいます。だけど、人としてのあなたは+101の位置にいます。ここで大事なのは、お互いに愛し合っていた異性は別れることがあるけれど、お互いが好きだった人と人は別れることはほぼありません。別れかたの劇的さ、別れたときの喪失感、事の重大さは、前者と後者で圧倒的な差があります。とても長い時間このことを考えて、私はこの差を確信しました。だから、異性としてのあなたと付き合うわけにはいかない。人としてのあなたを失う分には、おそらく異性としてのあなたを失ったとしてもしょうがないと思えるけれど、異性としてのあなたを失ってしまえば、人として大好きなあなたをも失ってしまいます。それだけはどうしても避けたい。

終わりが絶対に嫌だから最初から始めないほうがいい。

だから、私はあなたに好かれるのが怖かった。

ごめんなさい。

それなのに私は、なおあなたを独り占めしようとして、困らせてしまったわ。

だってあなたが私をわざと悲しませるようなことを言うから。そんなあなたを許したくなかった。あなたがそんな人だと思いたくなかった。だからあなたと離れたくないって伝えたくなっただけなの。

つまりそれが「思わせぶり」だったのね。

私にはあなたを止める権利なんてないわ。あなたを私のそばにつなぎとめておくなんて、こんな非人道的で利己的なことはないわ。本当にごめんなさい。

「友達以上恋人未満」ってこれなのね。あなたにそんな俗っぽい言葉使いたくなかったわ。

 

もっともっと早くあなたと出会っていればこうはならなかった。あなたに好かれることが幸せで、私もあなたを好きになって、ふたりで一緒になれたでしょう。

もしくは、あなたを異性として好きになることなく、人として尊敬しながら生きていくことができたでしょう。そう考えると、異性としてのあなたとの出会いはすごく運命的だったと言わざるを得ません。

もし許されるのならば、「恋人でないけれど特別な関係」を築きたい。(語弊を避けるために断っておくけれど、他意は全くありません)

 

 

好きだと言ってくれたあなたに、私が投げたのは避けようのない鋭利な刃でした。もちろん不本意です。だけどその何百倍も不本意で理不尽な結果に立ち尽くすあなたを、私は想像しました。えぐられた心の刺し傷から私への思いが滴り落ちないように必死におさえているあなたの姿を、何度も感じました。

あなたは何度も何度も好きだと言ってくれました。

その度に私は、足元に落ちた血まみれの刃を拾い上げ、まるで私の気持ちとお互いの状況を確認するように、何度も何度も投げ続けました。

そのうちあなたは好きと言わなくなり、もう好きなんて言わないから安心してねと言うようになりました。まるで好きであってはならないことを自分に言い聞かせるように。

 

あなたがそんな私に対して復讐心を燃やすことなど、想定内でした。今ではどんな復讐も受けるつもりでいます。

だって私があなたにした仕打ちに勝るくらい酷いことって、優しいあなたにはたぶんできないでしょうから。

 

あなたがもしよければ、これからも今までみたいに仲良くしてくれると嬉しいな。

これは、私の人生におけるとっても素敵な出会いを失ってしまわないための、最悪だけど最善の選択なのです。

 

とっても好きです。でも好きではいけないのです。

ごめんなさい。

レコメンデット・コンフリクト

他人のオススメを聞く行為。

たとえば、初対面の人が読書好きと分かれば、「この人はどんな本を読むのだろう、どんな本を面白いと思う人なんだろう」ということが気になるのは自然の流れです。

たとえば、好きな人が映画好きだと分かれば、「私もこの人の好きな映画を見てみたい」と思うのは世の常です。その人が感動した映画というのは、その人を作り上げている一部なわけですから、私の体にもそれを取り込んでしまいたい、あわよくばその人と同じ趣味を楽しめるようになりたいと思ってしまうのは、私だけではないでしょう。

たとえば、嫌いな人がよく読んでいる漫画は、私はあまり読まないようにします。嫌いな人がオススメしてくれるお店にも行かないようにしています。もしもそれで私が気にいる漫画だったら、私が気にいるお店だったら、なんかこわいじゃないですか。今まで私はこの人のことを嫌っていたのに、ひとつでも共通点があるなんて、そんなことは避けたくなるじゃないですか。私だけかもしれないけれど。

好きだった人がオススメしてくれた本があります。その人がオススメしてくれたという事実を差し引いても、その本は素晴らしい本で、私がこれまでに読んできた100冊を超える本のなかで、トップ10に入るほどだと思いました。

ただひとつ悔いるべきことは、その人と私の関係が、けんか別れのような状態で終わってしまったことです。今読んでみてもその本は素晴らしく、とても嫌いにはなれない本なのですが、やはり読み進めるほどに複雑です。

多分これからも大切にしていく本ですが。

何かモヤモヤが心の中に渦巻いているので、ここに書いておくことにしました。

コンシスト

最近よく思うのですが、私って何からできているのでしょうか。

分子?原子?なんか中学生の頃に習ったような気がする粒たちが、本当に私の体を作っているのでしょうか。

私は知っています。積み木遊びで建設したお家やビルは、些細な力で簡単に崩れてしまうことを。たとえば、この積み木同士をボンドでくっつけていけば、私のように転んでも崩れてしまわない体を作ることができそうです。

私が原子で出来ているとして、その材料はどこからきたのでしょう。

受精卵だったときから、私は私なので、私が材料を集めてきたわけではありません。

私ができるまえから、私の材料はこの世のどこかに準備されていたのです。

私は生まれるまで、そして生まれてからも成長を続けてきましたが、この材料はどこからきたのでしょうか。これは簡単です。多分食べ物からきたのでしょう。

食べ物はどこからきたのでしょうか。

これも簡単。どこかの誰かが育ててくれたお米や牛や魚の一部を、私は食べています。

お米や牛や魚の材料は、じゃあどこからきたのでしょうか。

 

うーん。

 

これが食物連鎖なのでしょうか。

こうやって考えていくと、どちらかというと輪廻転成みたいな感じもします。

 

すべてのものを同じ原子という粒が作っているのだとすれば、海と牛の形が違いすぎることが不思議でなりません。

 

アマゾン川に降り注いだ雨粒の中の水素原子は、海へ出て、大海原の旅の途中ハマチやヒラメの体の中に入り、そのハマチやヒラメを私が食べたら、なんと私はアマゾンの水を飲んだことになるのではないでしょうか。

 

眠たくなってきました。おやすみなさい。

元号

平成31年4月1日午前11時30分から、安倍晋三内閣総理大臣ならびに菅義偉内閣官房長官による、新元号の公布がなされます。

もちろん巷では新元号の予想が盛り上がらざるを得ないので、その流れに流されておこうと思います。当たったところで自分しか喜ばないでしょうし、なんなら自分すら喜ばないと思います。要は自己満足です。このブログ自体自己満足で自己完結しているので、それでいいのです。

それでは予想に移ります。

 

『香練』

この元号には、平成の世に一区切りをつけたあとにも、世界は平和を忘れてはならないという思いが込められています。香りは空間を超えて周囲に等しく広がります。時に外の力に押されながらもしなやかに進路を見極め、万人の感覚に訴えかけます。練には糸を縒りあわせる意味があり、日本国に太古より受け継がれる血を、民族の礎たる魂を、国民ひとりひとりを一筋の糸と見立てて縒りあわせるかのごとく、総力をあげる様を祈念しています。

近年我々人類は、歴史的・伝統的な区分である「国家」を単位とした国際社会のなかにあって、様々な国家の力のバランスを均衡させることに注力するあまり、力を統合することを二の次にしてしまっています。先の大戦における戦勝国と敗戦国に分かれ、まるで小学校の学級のなかで成り行きで構成されたいくつかのグループのように、互いに睨みを効かせながら、互いを抑止しあい、揚げ足を取り合い、少しでも他者より優位に立とうと日々奮闘しています。勿論その一方で、この状況に異を唱える者もいます。我々は、そういった力が周囲に広がり、周囲の皆が力を合わせる世の中を祈願しなければなりません。牽制と皮肉に満ちた統率者たちを打倒することは決して目的ではありませんが、真の意味で本惑星に生きる皆が納得できる社会の実現に向けて、人類として進化すべき時代は、すぐそこに迫っています。

 

なんか宗教っぽくなってしまいましたね。

おやすみなさい。

無目的

「垂れる頭のない稲穂」に引き続き、もうひとつブログを開設してみました。特に目的も理由もありません。作れるから作ったというだけ。

今後何かブログを分ける目的を思いついたら、途中からそういう方針にしようと思います。

 

さて、多目的室という部屋を目にしたことがあります。学校やオフィス、病院にもありました。

多目的って便利。

私の部屋だって、いつもは意識してないけれど、意味の通りに捉えれば多目的室だし、普段何気なく使ってるスマホも多目的電子機器。

だけど、この世には目的が限られているものもあります。

例えばコップは、中に入れるものが多様なだけで、目的は「飲むこと」ですね。「溜めること」の場合はコップじゃない気がします。カップとか、ボウルとかじゃないかな。個人的な解釈が大いに入ってきて、いけません。

他にも箸は「食べること」、ペンは「書くこと」、椅子は「座ること」。

なんだかありきたりすぎて面白みがありません。

では、夢はどうでしょう。夢の目的?うーんなんだか哲学的ですね。

では愛は?睡眠は?海は?熱帯雨林は?キリンは?信仰は?悩みは?思考は?記憶は?デートは?死別は?国際大会は?風邪は?身長は?ダイエットは?優しさは?過ちは?友人は?人生は?私は?あなたは?あなたの大切な人は?

この世には目的が限られているものと、そうでないものと、そもそも目的なんてないものがあるようです。

それぞれに目的を与えるかどうかで、各人にとっての重みは変わります。

あなたにとって重い夢でも、あの人にとっては違うかもしれない。

私は、どんなに小さく見えるものにも、最大限の目的を与えて生きていこうと思います。

しかしそれでも、このブログに目的はないのです。